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아쿠타가와문학과 이상문학에 있어서의 ‘예술관’비교(1)
초록
本稿は芥川竜之介文学と李箱文学における相互テキスト性を<芸術観>に焦点を当て考察したものであるが、ここでいう<芸術観>とは狭い概念のもので、叙述的局面をさす。まず、両文学の間には<話の分片化>の様相が著しい。つまり、伝統的な小説の美学ともいえる<話>即ち<筋>が見られず、事件は破片としてモザイクされる。それは最晩年の芥川の提出した<話らしい話のない小説>論を喚起するもので、それの受容が李箱文学と見做される。 それから、<話らしい話のない小説>と共に提出された芥川の<詩的精神>をキーワードにし、相互テキスト性を考察してみた。しかし、芥川の<詩的精神>とは果たして多面的な概念をもち、果たして解釈しにくい用語である。そこで、芥川が<詩的精神>を論じるに当たって常に志賀直哉文学を出していることから、志賀文学に冠せられている文学史的な用語、<心境小説>をもって考えてみた。その結果、芥川が追い求めていた小説の美学とは東洋的な調和に満ちた境地であり、人間の意識の内部を深く捉えていく形でのものであることが分かる。しかしながら、李箱は既にモダニズムの子と見られているように、その作品は破片的で無機質で意味的に整合しない言葉が点々と連なる世界であり、<詩的精神>とはかなり違うものであった。 最後に両文学における相互テキスト性の本質について考察した。芥川は最晩年、眼に見えない人間の意識内のことを再現することに力を入れており、その実践として<話らしい話のない小説>や<詩的精神>などが提示されたのである。しかし、芥川文学は表層では話が分片化されていても、その内部は頑ななメカニックな構成力に支えられている特徴がある。李箱はそれに気づいており、受容していったと見做される。気質的に芥川が散文的で論理的というならば、李箱は詩的であり、論理性に欠ている。つまり、芥川は理論的には<詩的精神>を追い求めていても、実際にはそれとは掛け離れているのでおり、メカニックな構成力に呪縛されていたのである。水が流れるような志賀文学に対する憧れは芥川自らの限界の裏返しで他ならない。それから根本的に構成力の欠く李箱の芥川文学に対する憧れも、そのような相違性を己の限界として受け止めていることから生じるアイロニーなのである。
키워드
- 제목
- 아쿠타가와문학과 이상문학에 있어서의 ‘예술관’비교(1)
- 저자
- 김명주
- 발행일
- 2009
- 저널명
- 日本語敎育
- 호
- 50
- 페이지
- 169 ~ 185
- 언어
- KOR
- 출판사
- 한국일본어교육학회
- 발행국가
- 대한민국
- 분량
- 17 페이지
- ISSN
- P 2005-7016